今、我々に必要なもの
神信心を始めると、信心が篤くなるほどお試しがあると言われることがある。お試しとは軽い試練ということが出来よう。その人が信心の道でどれだけ成長したかを自覚させる意味があるそうな。言うなればお試しがあるのはおかげであるということになる。ありがたいことだけがおかげとは限らない。
最近、社会では
人生に疲れた人々を
何とかしようといった
努力がなされていますが、
果たしてその方向性は
大丈夫でしょうか。
どうもあさっての方向に
向いているように思えるのは
私だけでしょうか。
その典型例が「ゆとり」です。
休日を増やして
いろんな趣味を持ったり、
家族との触れ合いを
大切にしたりしていこうと
いうものです。
聞こえは素晴らしいのですが、
それで果たしていいのでしょうか?
今、我々に必要なものは、
よく耳にする「生きる力」です。
ゆとり、ゆとりと言いますが、
ゆとりを持てば、
そこに生きる力が湧き出るとでも
言うのでしょうか。
生きる力といったものが、
どのようなもので、
どうすれば養えるかが
分かっていないようです。
生きる力を
与えるくれるのは環境です。
ゆとりが生きる力を
与えてくれるわけではありません。
人は環境とのかかわりの中で
行動を起こし、
その見返りを受けることで
生きる力を持つのです。
人は自分が興味あること、
楽しいと思えることをしているときは、
ゆとりが欲しいとは思いません。
自分のやりたいことに
打ち込んでいるときは
疲れなんて気になりません。
寝る間を惜しんで熱中するものです。
疲れていても
休む時間がもったいないと
思うものです。
ファイナルファンタジーや
ドラゴンクエストを
寝る間を惜しんで
夜通し続けたことがあるでしょう。
「冬のソナタ」や「24」を
明日、しんどいことを承知で
見続けませんでしたか?
オールといって
夜通し遊び続けたことがあるでしょう。
大好きな人と一緒にいるときは、
もったいなくて
寝るに寝られなかったのではないですか?
今我々に必要なものは
ゆとりではありません。
ゆとりなど必要もしないほどに
打ち込める環境が必要なのです。
子供たちにしてもそうです。
ゆとり教育などと、
どこの誰が言い出したのか知りませんが、
愚策もいいところです。
人間を曖昧な形でしか
理解できていない人が、
時間的ゆとりを与えれば
少しは子供たちが変わるとでも
思ったのでしょうか。
今、子供たちに
してやらなければならないことは、
ゆとりの時間を与えて
好き勝手にしなさいと
いうことではありません。
子供たちも大人と同じ、
自分の打ち込める環境が
必要なのです。
勉強時間を減らすのではなく、
勉強内容を削減するのではなく、
「勉強がしたい」と
やる気にさせるだけの
環境が必要なのです。
子供たちに
「どうして勉強するのですか?」
「どうして生きるのですか?」
などと問われている社会では
話になりません。
経済発展の名のもと、
効率性や利便性ばかりに目を奪われた結果、
人間が生きていくうえで肝心な
見返りが失われている事に気付きたい。
子供たちが、
勉強が面白くなくなったのは、
教える側が利便性や効率性を
追求した結果、
子供たちから興味や楽しさを
奪ったからです。
今我々に必要なものは、
自分を湧かすことのできる環境です。
「ゆとり」は
疲れ果てた人が望む最後の場所。
いくら頑張っても、いくら努力しても、
見返りが得られない人のための救いの場所。
ゆとりが欲しいと思っているようでは、
その環境に期待できるものはありません。
自分を湧かすことのできる環境はお持ちですか?
自分の好きなこと、興味あることに取り組んでいますか?
今の環境に自分を熱くさせるものはありますか?
ゆとりを求めているようでは、
そこが限界だと、お手上げしているも同然です。
まとめ
経済発展の名のもと、
効率性や利便性ばかりに目を奪われた結果、
人間が生きていくうえで肝心な
見返りが失われている事に気付きたい。
子供たちが、
勉強が面白くなくなったのは、
教える側が利便性や効率性を
追求した結果、
子供たちから興味や楽しさを
奪ったからです。
今我々に必要なものは、